多様性はしんどい

 

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どうにも、公立中学校という話題は腫れ物のようで、不用意に触ると炎上するようである。しかしまあ、そのメリットを金や通学時間が要らないこととするのは分かるが、『多様性』を掲げるのは少し違う気がする。当の彼ら自身が多様性をゴリゴリと潰そうとしているからだ。

 

上の過去記事に書いた通り自分が通うはずだった公立中に授業参観で足を踏み入れたことがあるが、とても多様性を重んじているようには思えずむしろ特殊部隊でも育てているかのような印象を受けた。それは大げさだが、少なくとも服装と行動の多様性はなかった。

 

中卒者が金の卵と重んじられた過去の残滓なのか、専門科であれ普通科であれ全うな高校生に育て上げる現在のニーズなのか、内申を介して望ましい行動を規定し態度・意欲の名目で内申にするので毎日が高校入試で気も抜けないように思われた。参観ゆえ締めている部分もあるだろうがそれだけとは思えなかった。

 

小学校だと私服で、規則も小学生なりの多少の制限こそあれ全く厳しくなかったが中学になるとああも厳しくなり、服の丈まで統制されるようになるのはなぜか。どこかは忘れたが下着の色までチェックなどと18禁作品みたいな事までするのはなぜか。生の多様性には耐えられないからではないのか。

 

ヒトというもの、受精卵からまで数か月ほどは日単位でほとんど個体差なく育つ。何日目に何々ができ、何日目にこれの基となるそれが分化し......と細かくわかっている。出生の時点でもだいたい同じ。分娩台からすぐ立ち上がって歩いて『天上天下唯我独尊』などと言ったりする事例はほぼ無い。

 

問題はその後である。立つ時期が違う、食べるものが違う、聴く言葉が行く場所が習い事が違う。交流する人が違う住む家が違う着るものが違う。覚えるものが違う、与えられるものが違う、考えることが違う。

産まれてからは様々なものの影響を受けて、様々に育つ。これが多様性のおおもとである。その多様性は年を経るごとに蓄積し、その結果ある程度強権的に抑圧しないと収まらないのが中学生の、米国でいうところのteenの頃なのだと勝手に理解している。

 

公立中では、必要なことであろうとは言え多様性を重んじているとはいえずむしろ抑圧しているのである。それを美点として誇るのにはやはり違和感がある。

 

それに、公立中の生徒同士の多様性はごくわずかな例外を除いて市町村の一部、校区の中だけの半径数kmの多様性である。隣の市出身の人さえそう居ない。その代わり地縁ができるのはメリットだろうか。

 

翻って染色体の多様性が無いような学校でもまた別の多様性があるものである。揃いも揃ってみんな育って堅苦しいことはない。全身ユニクロもいれば高級ブランドのも半裸のもいる、東京出身もいれば石川、名古屋、愛媛に福岡、沖縄出身もいる、国体で優勝するのもいれば音楽に身を投じるのもロッカーに小さな漫画図書館を築くのもいる。親の金の違いで見ても差額でにしろ割合にしろ相当大きい。

そんな多様な連中と話したり、あるいは隣の席やクラスにいるだけでも色々と受け取れるものだ。

 

同一家庭で工場のごとく均一に育てたクローンで枠を埋めでもしない限り、多様性は何かしら自然に生じるものだ。ただ、あまりに多様性が豊かすぎると無秩序でしんどく、少なすぎると画一的で息苦しいので適度にあると良い。