排除と利便性

今の世の中では、うまく大義名分を仕立てない限り人間を排除してはいけない。その大義名分が立つのも未成年と反社くらいか。それにしても反社は反社であるがゆえ社会側も反反社になるのは納得だが、あらゆる所に排除を目指すポスターが張られて抗議のひとつも起きない現代の非差別階級である。まあそれはいい。逆にそれ以外ではモノやサービスに等しくアクセスできるよう努力がいろいろとなされる。

 

多様な他者が包摂されるのが善であり、より多くの人が享受できることが便利だと考えられる現代において、それでも排除こそが利便性をもたらしている場合も存在する。

 

例えば自分が今いる医学部など、フリーアクセスにして誰でも既存の学生と同じかたちで講義に参加できるようになれば大変なことになる。あまり拡張可能性のない運営なので大学当局がパンクしてしまう。通信大になって病院実習までもオンラインで済むようになれば別だが現状はそうなっていない。医業の神聖性を全部削ぎ落して極端なことを言えば、専門職労働者の育成機関という利権にありつくには選別を突破せねばならない。

 

電気水道などは他の誰が隣で使っていようと知ったことではないが、その隣人が1m足らずの拳骨が届く範囲にいる場合は気にせざるを得ない。都市部で公立中を嫌う動きがあるのはよりよい教育を求めてのことだが、その中には隣に座る人間が同じくコストをかけられて選抜されたものであることを望む部分もあろう。

 

そうでなくとも、例えば高い運動能力を持たないと居れない場、数年来の仲間内の場、独自の専門用語が通じる場といった排除の働く所では余所者がいないので、えてして円滑にコミュニケーションが進み快適なものである。

現代的な包摂はここ数十年の物であり、差別や排除の方がずっと長くやっていたのだから排除を自然なものだと思うことは多いが、それでも現代人としてそれを堪えて進歩していきたい。