ふるさとはコンクリートロード

今日の深夜2時にツイッターを眺めていると『耳をすませば』のテレビ放送でもあったのかそれに言及しているツイートがあった。作中の替え歌で『カントリーロード』をもじって舞台を東京西部にした『コンクリートロード』というのがあったそうだ。

 

実際の道路舗装は大半がアスファルトだという野暮は抜きにして、私のふるさとはこっちである。多摩の街ではないが、舗装道路どころか鉄路までJRが4本と阪急の2本が通っているのが私が生まれ育った所である。

 

コロナで色々と吹き飛ぶまでは盆と正月には田舎の故郷に帰るものだとよくテレビで流れていた記憶がある。しかし自分にとってはその田舎は異郷である。幼いころに親戚づきあいで大阪の南の方とか鹿児島の”実家”に連れられた時も、そこは旅行先であった。私の故郷は高槻の住宅地である。

 

童謡の『ふるさと』に山や川がうたわれ、国破れて山河ありともいうが人間は自然の中に住むことはできない。田舎の村にも電気水道道路にネットが通じ、土地は水路で隔てられ田畑になってと人の手は確実に入っている。山は均して埋立地を造成し、川はコンクリート護岸で覆い、谷沿いを切り盛りして道路を通してこそである。

 

そう考えれば程度問題であり、故郷の農村などという共通幻想も受け入れているとはいえ、コンクリートのビルが並び、郊外にはイオンがあり、新快速が普通電車を追越し、そこそこ高頻度のバスで整備されたBBQ 場に向かえるのが私の育ったところである。