英語を話せる必要性

ここ数年、いや10年くらいかで『英語を学ぶなら話せないといけない』なんて偏見がまかり通っていて、何度も公的な入試にスピーキングを取り入れる試みがあった。

面接でもなく直接入試として問うものは労力と公平性の都合少ないとしても、英検だのGTECだの、あるいはTOEFLにIELTSだのを取り入れてくるところが増えてきた。私の世代はそれから逃げ切れたので幸せである。

 

私はここ数年、英語が話せると何がいいのかわからなかった。外国との交渉が伴う仕事やコロナに焼かれたインバウンド観光客のガイドでもするならともかく、ふつうに暮らすぶんには英語が口から出てくる必要性は無いと考えていた。

英語で何かする仕事というものは何億からの英語ネイティブ及び、各国のグローバルエリートたちとの過酷な競合あふれるレッドオーシャンだと認識しているのだ。

 

漢詩を韻を踏んで読み上げられると楽しいのと大差ない価値しか英会話に認めず、やけにビジネスが繁盛しているあたり就職にでも使うのかな、あるいは趣味人がやけに多いのかな、などと思っていたが最近にしてようやく価値を感じられるようになった。

 

その発端は、いろいろ名前を誤魔化した外国人労働者が本邦から離れつつあるとのニュースで、安月給でブラックなのでもう嫌だというのである。それに、欧米先進諸国の最低賃金を出羽守が定期的に流してくるのを見て、これからは労働者を送り出す時代に戻るのではないかと考えたのだ。

 

これまたコロナで最近聞かないがオーストラリアでのワーホリ、実際はワーキングワーク、の話は前からあった。向こうの最低賃金に、空調のもとでウェイターなどしてありつくには英語がどうしても必要である。将来的にはシンガポールと交渉して、比較的よく勉強のできるメイドとして受け入れてもらうこともあるだろう。

 

政府が将来をみこして、誰でも英語での日常会話ができるレベルを目指す理由としてこれならば納得がいく。働きに出るならやはり潰しのきく英語圏、単純労働の枠なら比較的余裕があるように見える。なので最近は英会話不要論を垂れ流さないようにしている。